少林寺拳法の学び

少林寺拳法の学び Vol.3 2020/6/5

誓願の意味について

少林寺拳法を修行するうえでの心構えであり、信念(かたく信じて動かない心)を表したことばです。誓願:(誓いのことば)   
拳士同士がお互いに仲良く協力しあい、いつでも新しい気持ちで真剣に修行し、世のため、人のため尽くせる人になるよう努力します。という、自分への誓いです。
一、我等此の法を修めるに当り、祖を滅せず師を欺かず、長上を敬い、後輩を侮らず、同志互いに親しみ合い援け合い協力して道の為につくすことを誓う。

意味修行にあたってまず、行の基本である達磨大師と開祖、先生、先輩、後輩との関係の調和(うまくつり合い、全体がととのっていること)
拳士同志の援け合いや協力を重んじることを誓います。
また、勝ち負けや優劣に囚われて他者を否定するような“己しかない”人間にならないよう、自らを戒める意味も含まれています。
一、我等一切の既往を清算し、初生の赤子として、真純単一の此の法修行に専念す。

意味少林寺拳法を修行するにあたっては、純真な気持ちで、常にひたむきに取り組むことを誓います。
過去に囚われて物事を曲解したり、他に心を奪われて道を見失うことのないように心すべきです。
一、此の法は、済生利人の為に修行し、決して自己の名利の為になすことなし。

意味修行の目的が自己の名誉や私益ではなく、済生利人(世のため人のため)にあることを確認します。

少林寺拳法の学び Vol.2 

聖句の意味について

聖句:(尊い教え)・・・自分自身を見つめ、秘められた可能性(隠れていて見えないが出来る自分)を引き出すために努力し、自己確立(少林寺拳法を通して、自信と勇気と行動力を身につけ慈悲心:思いやりと正義感を持った本当に強い人間になること)目指す大切さが書かれています

己れこそ己れの寄るべ、己れを措きて誰に寄るべぞ、良く整えし己れこそ、まこと得がたき寄るべなり

意味自分こそが、本当に頼りとすることのできるものです。自分を頼りにできないで、誰を頼りとすることができるのでしょうか。
しっかりとした自分こそが、本当に頼りとすることのできるものなのです。

自ら悪をなさば自ら汚れ、自ら悪をなさざれば自らが浄し、浄きも浄からざるも自らのことなり、他者に依て浄むることを得ず

意味自分が悪いことをすれば自分の心がよごれてしまいます。
自分が悪いことをしなければ、自分は清らかです。
すべて自分自身のおこないの結果です。誰も自分を清めてくれることはできません。
[check]次回は、鎮魂行は正しい姿勢と呼吸法(調息法)を学びます

少林寺拳法の学び Vol.1 2020/5/27

鎮魂行とは、

  • 少林寺拳法の一つとして、教えを自分に言い聞かせ、心を修めるために、「鎮魂行」をしています。
  • また集中力を高めることにもなっています。
  • 少林寺拳法のあり方や拳士の目指す姿を自分に言い聞かせるように、皆で声をそろえて言ったり、姿勢や息を整えます。
    以上のことで「これから修行するんだ」という気持ちにもなれるんです。
    この気持ちになり、聖句、誓願、道訓、信条を言います。
    また、正しい姿勢で調息法(呼吸法)も行います

「脚下照顧:きゃっかしょうこ」がわかりやすい詩

少林寺拳法の足元を照らし、かえりみると書く「脚下照顧」は、常に自分自身を見つめることで、正しい行いを求めていくという意味を下記にて紹介

はきものをそろえると 心もそろう
心がそろうと はきものもそろう
ぬぐときに そろえておくと
はくときに 心がみだれない
だれかが みだしておいたら
だまって そろえておいてあげよう
そうすればきっと
世界中の人の心もそろうでしょう

これは、曹洞宗円福寺の住職を継ぐ、藤本幸邦さんが、お坊さんの教え「脚下照顧:きゃっかしょうこ」を子ども達にもわかるように、そして行動として身につくようにと考えたのがこの詩です。

環境は心を映し出しているとも言われます。たとえば、掃除をして身の回りが綺麗に片付くと、心まですっきりと整理されたような気持ちになることがあるでしょう。
まずは足元から正しく整えることが大切であり、それができれば自分の行動を冷静に振り返り、次に繋がる一歩を踏み出すこともできるということです。
「だれかが みだしておいたら だまって そろえておいてあげよう」とは、足元を正しく整えることの大切に気づかない人の分まで、はきものをそろえてあげましょう、ということです。
それは、思いやりの習慣をみんなが身につけて行動したら、世界中の人の心も一つになるということなのです。